mittsuの日記

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銀閣寺発掘によって新発見について気になる記事

銀閣寺、当初から正方位? 新発見で謎浮上、江戸期移動説に影響も
http://www.kyoto-np.co.jp/article.php?mid=P2008030100082&genre=M2&area=K1D
 足利義政が室町後期に建立した京都市左京区慈照寺銀閣寺)で、1月に見つかった東西方向の土塁やL字型の石垣をめぐり、新たな謎が浮上している。これまでの発掘調査を通し、銀閣寺は造営当初、南東を向いていたが、江戸期の改修で現在の南北方向(正方位)に移動されたとの見方が強まっていた。しかし、今回の発見で当初から正方位だった可能性が出てきた。その場合、従来の遺構に銀閣寺以前にあった「浄土寺」のものが含まれている可能性が考えられ、「移動説」も含め論議を呼びそうだ。

 銀閣寺は義政が1482年から、隠居所として造営した「東山殿(ひがしやまどの)」が死後、寺に改められた。当時から残る建物は国宝の観音殿(銀閣)と東求堂だけだが、どちらも創建時の場所から移動したとする説がある。

 東求堂は江戸中期に出版された観光案内書に「元は銀閣の東、方丈の南にあり、現在地に移した」と記される。1964年の解体修理で、建物の下から室町後期の池の景石が見つかり、大部分の柱に、移動に伴うとみられる修理の痕跡があり、移動説が有力となった。

 また銀閣も、現在の地表面が室町後期より1メートルほど盛り土がされており、当初より高い位置で立て直されている可能性があるという。

 銀閣寺は江戸初期に宮城豊盛の手で改修され、現在の寺観が整えられたが、このときの改修がかなり大規模だったとみられることが、移動説の背景になっている。この説をさらに補強したのが、2003年の発掘成果だ。中門改築に伴う調査で、真南より15度南東の方向に並ぶ室町後期の石列や土盛りを確認した。これらが創建時の建物に伴うものとすれば、やや南東向きの線を軸に造営されたことになる。

 過去に見つかった暗きょや導水施設、溝はいずれも同方向か直角で、南北方向の遺構は見つかっていなかった。創建時の建物跡が見つかっていないだけに、貴重な成果として注目された。

 ところが1月18日に発表された石垣や土塁の遺構はいずれも、正確な東西南北に造られていた。当時の建物の軸が現在と同じとすると、少なくとも銀閣は移動していない可能性が高くなる。銀閣寺は、平安時代以来あった「浄土寺」の寺域に建てられており、これまで見つかった遺構が、浄土寺の関連だった可能性も浮上する。
 京都市埋蔵文化財研究所の吉崎伸・調査課長は「今回の石垣や土塁の方向が創建時の建物の向きと無関係とは考えにくい。これまで見つかった遺構で、明確に東山殿の時期と断定できるものは少なく、再検討が必要だ」と話している。

大変興味深い。ただの移動と言うことでなく、義政の美意識の表現の真実をさぐるという意識で見なくては、、と思う、修復前に良く調べていただきたい。