mittsuの日記

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百人一首2 しらべもの

苦抜き地蔵さん

百人一首シリーズ(?)
わたのはら八十島かけてこぎ出ぬと人には告げよあまの釣船


作者は小野篁六道珍皇寺から地獄に通い、
閻魔王庁の臣だったという噂で有名で、
(http://www.pandaemonium.net/rdb/menu/file/2017.html)
小野妹子の子孫で孫は書家で有名な小野道風、839年に読まれた歌


第17次の遣唐使として、834年に嵯峨上皇に副使として任命された。
何度か渡航の試みるも失敗。838年に篁が渡航を拒否する、が、
その時の舟は揚州と海州に着く。
その一行の中には、のちの天台三代座主慈覚大師円仁も入っていた。その当時の事は
円仁が書いた「入唐求法巡礼行記」に詳しい。その後入船拒否の罪で、839年に壱岐に配流になって
しまう、その時にその流される時に読んだ歌とされる。


拒否の理由は、体調不良の為とあるが、何度の渡航の失敗など省みず、一方的に入唐を急がせる
遣唐大使、その背後の朝廷にも不満があったと思われる。そしてその時の嵯峨上皇を風刺し読んだ歌などが
上皇に伝わり配流になったとのこと。


私は小さな舟に乗せられて、海原はるかに多くの島々目指しこぎだして行ったよ。
と、わたしの親しい都の人たちに知らせておくれ。そこでつりをしているつり舟の漁夫よ。
と言う意味(個人的意訳)


そして840年に京に戻され、参議の位まで登る。


先日の菅原道真が894年に第18次遣唐使、遣唐大使として任命されるが、唐の様子を聞き遣唐使を廃止する。
よって、第17次遣唐使団で最後となる。何故廃止になったかは「入唐求法巡礼行記」の中に
当時の唐の荒れようが書かれてあり、想像できる。


表鬼門の守護をしている赤山禅院は、円仁が唐で赤山法華院に身を置き、帰国の際、赤山明神に
守って頂いたと言うことで、円仁の意思を継いで弟子の安慧が888年に勧請したのが始まり。
送り火の舟形は、円仁が荒波に揉まれる舟の上で「南無阿弥陀仏」を唱え、念仏の功徳により無事、
帰国することが出来たと言うのが由来、舟形に限らず、送り火には円仁の遺徳を偲ぶ意味合いも含まれる。


「閑けさや岩にしみ入蝉の声」で有名な山形、立石寺も円仁が860年に開山。


千本閻魔堂は、小野篁開基、閻魔法皇より現世浄化のため、無くなった先祖を
再びこの世に迎えて供養する「精霊迎え」の法儀を授かり、この精霊迎えの根本道場
として、篁自ら閻魔法皇の姿を刻み建立したのが閻魔堂の始まり。
現在の本尊閻魔法皇応仁の乱後1488年の定勢作