mittsuの日記

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もう来週は、

義仲が北国に行ってしまう、早いものだ。
そういえば、
平家物語を読んでいたら思い出した。が、
神護寺源頼朝像があるというのも、すっかり忘れていた、GWに寺宝の虫干しがあったのに
行かなかったからかも知れない。


*しらべもの 神護寺、文覚上人
もともと奈良時代末期にこの地には愛宕山五坊があり、そのひとつの「高雄山寺」がもとで、
そこに和気清麻呂が河内(大阪)に「神願寺」を建てていたが、真言には向かない地だということで朝廷に願い出て、
高雄山寺と合併した。そのときの名前が「神護国祚真言寺」(じんごこくそしんごんじ)
になり頭二つをとって「神護寺」となった。
空海が唐から帰って、寺に入ってからは寺運が上がったが平安末期には荒れ放題になった。


文覚上人(僧になるまでは↓参考)
http://www2u.biglobe.ne.jp/~yamy1265/kyoto-55.html
が、神護寺の復興を考え、勧進帳を檀那を探して京中を回る。ちょうど
義経が奥州に着き何年か経った時だと思われる。
そして法住寺殿に向かう、後白河上皇は歌会中で断られるが、それを聞かず向かい、
それがもとで伊豆に流罪になる。伊豆に流されたときに、頼朝と接触し、平家追討の挙兵を決断させた。
後白河法皇と文覚上人は最初からそのつもりで、歌会時に勧請にいって流罪となったのでは
ないかとも言われている。
文覚上人が後白河院院宣を頼朝に渡したことから、鎌倉幕府成立以後も、神護寺は頼朝の加護を受けて発展した。
その後、平安初期の荘厳な伽藍が復活した。
しかし、後白河院が亡くなり、頼朝も不審な亡くなりかたをすると、敵が多くなり、後鳥羽天皇佐渡流罪にされる、
そして、三年後に京に帰ってくるも、次は隠岐流罪になりその地で亡くなった。


義経ブームだが、ドラマに出ないというだけで、式子内親王や文覚上人などが忘れられる事無く、
ドラマから興味を持ってもらって、その他の人も知ってもらえばもっと深くおもしろいかと思った。