mittsuの日記

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百人一首6 また

上七軒

よをこめて鳥のそらねははかるとも 世にあふさかの関はゆるさし
清少納言


964-966頃から、1020年頃まで人で、990年頃に一条天皇
中宮定子のもとに宮仕えを始める。
機知と教養にあふれる人として有名で、「枕草子」を執筆する。
本格的な摂関政治が始まり、藤原道長がやがて天皇の外縁となり
権力を握るようになる。


この歌は、藤原行成とのやりとりでの一首。
藤原行成は、小野篁の孫の道風と共に、三筆の一人。正二位まで登る優秀な役人でもあった。


ある晩、清少納言と雑談をしていた行成が物忌みと言うことで、丑の刻になっては困ると言うことで、
屋敷を後にした。(今での午前一〜二時くらい)
次の日に、行成が自分の役所の蔵人所の紙に、歌を書いて送った。
その内容が、「昨日はもっと話をしたかったが、鶏の声にせかされて残念だ。」という
内容だった。あまりに意味ありげに時間がずれているので、清少納言
「函谷関のことか」と返歌を送った、


函谷関とは、祇園祭の鉾にも函谷鉾とモチーフが取られ有名だが、ある関を突破するに当たって、
孟嘗君の家臣が鶏の鳴きまねをして時間を偽り、関を開けさせ、難所の函谷関を突破したという
故事。
この場合は、そんなに早い時間に鶏が鳴くとは、函谷関の鶏か、となる。


それに行成は逢坂の関を逢瀬に当てて逢坂の関はいつも空いているので心配ないと
歌を送ってきた。
その後の返歌。


夜が明けきらない内に、鶏の真似をされて、函谷関は関を開けたと
いうが、逢坂の関はそうはいきません。


失礼なことを言うな!と送り返した歌で、その後再度行成も歌を送るが、
この見事機知で返された歌を越える歌は送れなかった。


時代も安定しており、紫式部源氏物語を執筆した時期でもあり、平安文化が大きく発展するときでもあった。