mittsuの日記

ダイアリーからブログへ移行しました。

下記から移動しました。

http://d.hatena.ne.jp/mittsu/


「田村麻呂墓は西野山古墓」30年前に地元史家・鳥居治夫さんが指摘

http://www.kyoto-np.co.jp/article.php?mid=P2007061200034&genre=M2&area=K1J

 京都市山科区西野山岩ケ谷町の「西野山古墓」が、平安時代初期の征夷大将軍坂上田村麻呂(758−811)の墓である可能性が指摘されているが、30年前に同様の内容の論文を発表した同区在住の歴史考古学研究家・鳥居治夫さんが「自分の成果がようやく日の目を見て、大変うれしい」と喜んでいる。

 陶芸デザイナーの仕事をしながら、民間の研究会などで考古学や文献の研究に没頭した鳥居さんは1973年10月、近江考古学研究会が刊行した学術誌「近江」に発表した「山城国宇治郡条里に関する考察」で、西野山古墓を田村麻呂の墓と推定した。

 各地を歩いて、地上で確認できる遺跡を探していた鳥居さんは、古代に耕作地を方形のマス目で区画した「条里」を現代の地図に当てはめ、文献から遺跡の位置を割り出す歴史地理学の方法で、伏見区醍醐の醍醐天皇陵を起点に一帯の条里を復元、田村麻呂の墓の位置を推定した。

 しかし、論文は専門家の間では一定評価されたが、一般的に広く知られるには至らなかった。近くにある別の「田村麻呂の墓」の伝承を覆すことになるほか、「当時は反戦運動の華やかだった時代。蝦夷征討を行った田村麻呂の墓を大々的にPRできる社会ではなかった」と振り返る。
 今月4日、文献研究で西野山古墓が田村麻呂の墓である可能性を明らかにした京都大文学研究科の吉川真司准教授(日本古代史)も「推定地にずれはあるが、西野山古墓が田村麻呂の墓だと確定すれば、最初の発見者は鳥居さん」と公表時に評価した。鳥居さんは「自分の説を受け継いでくれる仲間が増えた気持ち。今後、発掘調査で実証されることを望みたい」と話している。

ある先生のページで聞いていたが、こういうことは、やっぱり歩いて調べると言うことは大事なのだと思った。