mittsuの日記

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良く分からないお寺 西芳寺

奈良時代行基が、聖徳太子の別荘を寺院にしたのが、始まり(伝説に近い)。
空海平城天皇の皇子真如(しんにょ)法親王が、居住していたこともある。
鎌倉時代に、幕府の評定衆(執権を支え政務にあたる高官)であった、
中原師員(もろかず)がひとつであった、寺を拡張して、西方寺と穢土寺(えど)
と二寺とした。そして法然を招き、浄土宗寺院にした。両寺とも、建武年間(1332-35)
の兵乱で、荒退したが、師員の子孫で、室町幕府評定衆を務める中原親秀(ちかひで)
が、夢想疎石がを招き、臨済宗の寺院をして復興した、そのときに二つの寺を、
ひとつにまとめて、西芳寺とした。夢想疎石の手による秀逸な、庭園、建物が、
できた。「西来堂」(さいらいどう)の額をかけた仏殿の南方には、二層の舎利殿
が作られていた。それは上層に水晶の宝珠を安置し、下層は瑠璃殿と称するものであった。
舎利殿の南北には、湘南亭、潭北亭(たんぽくてい)が配された。
建築物としては、方丈、仏殿、舎利殿、潭北亭、釣寂庵、貯清寮、礪精、
湘南亭、邀月橋、合同船、向上関、背後の山腹から山頂にかけて、
指東庵、碑亭、縮遠亭等の建築物が庭園の池を囲んで要所に配置されてた。
庭は、水を引いて作った広大な池を持ち、池には遨月亭(ようげつてい)が、
かけられ、池の周辺には、多くの名木、奇岩などが置かれていた。
夢想疎石はこのほかに、指東庵(しとうあん)が建てて、そこに石組みの枯山水庭園を
作った。そのあまりのすばらしさに、西芳寺仏殿前の庭園は、
夢想疎石の造った庭園の中でも第一のものであるとされた。
その庭園のすばらしさは、明国や李氏朝鮮にも伝わるほどで、光厳天皇光明天皇
歴代の足利将軍がしばしば訪れた。その当時の記録などは多いが、応仁の乱で、
すべて焼けてしまった。
延徳二年(1490)になって、かつての西芳寺の中心部を離れた指東庵だけが
再建された、(現在の建物は明治時代の再建)庭園も本願寺十五世蓮如らに
よって復興された。よって今見る庭園は西芳寺本体の庭ではなく別邸の庭。
今の庭は、上の枯山水と下の黄金地を中心とする池泉回遊式のものと分かれるが、
江戸時代に入ったころから、この庭園が苔に覆われはじめ、今は緑の苔の絨毯を
敷きつめたような光景になった。


まとめ。
今の庭は当時の庭ではなく、そして寺運が下がったからの苔の庭園だと思っていたが、
そうではなかった。
西芳寺の当時の庭園では無いが、指東庵の庭であったが、当時の文献などから、
元の通りに作られたもの(個人的推測)だと思われる。よって夢想国師のお庭
というフレーズは間違いではない、というか、正しかった。。
大きな流れでいえば、結果的に寺運が下がったから(応仁の乱)から、
苔が生えたというのは間違いないが、きちんと整備した庭であって、
そこになぜか苔が生えてきたということになる。
過去の文章の中で西芳寺について書いた文章で間違った記述をここで訂正したいと思います。
(過去記事内でもなんらかの方法で分かるようにしたいと思います。)↓