mittsuの日記

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百人一首7

平野神社

玉のをよ絶なはたえねなからへは しのふる事のよはりもそする
式子内親王

後白河天皇の第一皇女。平安後期から
鎌倉上期の時代の薄幸の内親王
高倉天皇以仁王とも兄弟。保元の乱
の頃の生まれ、1201年に無くなる。50歳頃
平徳子と大体おなじくらいの年齢


わずか6〜7歳で、内親王宣下を受け、斎院に
卜定され、潔斎に入った。
現代では葵祭りの主役でもある賀茂社に仕える斎王に幼くにして就く。
当時の斎王は、内裏で3年以上潔斎しないと、就くことのできない位だった。


しかし15〜6歳の時に精神的病気から院を退く、母方の高倉院に入る。
28歳の時、慕っているとの噂の藤原定家が家司として高倉院に始めて訪れる。


その後平家滅亡、32〜3歳の頃。その後八条院で暮らすも、色々悪い噂を立てられ、
出家させられてしまう。その頃もう一人慕っていた浄土宗開祖法然と出会う。


父である後白河院が亡くなった後は、ますます辛い境遇になる、も、対立勢力の衰退から、
後白河院の遺言で受け取るはずだった大炊殿に帰る、幸せな生活を送るも、病に倒れる、
その47〜8歳頃に当時2歳の春宮守成(順徳天皇)を式子の猶子(養子にする話もでるが、
1201年、49〜50歳、頃亡くなる。その後、順徳天皇院政の道具にされ
佐渡配流されることに、なってしまう事を考えると、どちらにしても良い結果には
ならなかった。


この命絶えるものなら、絶えてしまえ、いずれこの心(恋心)を隠す力も弱ってしまうだろうから。


恋の歌が多かったが、藤原定家法然に宛てられた歌とされる。
今回の歌は近年の研究で法然に宛てたものとなる。
定家とならんで、新古今を代表する歌人として評価される。