mittsuの日記

ダイアリーからブログへ移行しました。

下記から移動しました。

http://d.hatena.ne.jp/mittsu/


百人一首4 続き

首出神社

百人一首など

忍ふれと色に出にけり我こひは ものやおもふとひとのとふまて
恋すてふ我名はまたき立にけり 人しれすこそおもひそめしか


作者、平兼盛
作者、壬生忠見


天徳内裏歌合、第20番での左右の歌。
天徳内裏歌合とは天徳四年(960)三月三十日、
村上天皇の内裏で開催された歌合。

清涼殿で藤原家と源家に分かれてでの、戦いであった(と言われている)
歌合いとは、歌人を左右二つに分け、より多くの番数で勝ちを得た、組が勝利となる。
当初は、遊びの意味合いが大きかったが、後に、政治的な意味合いを帯び、その勝負は大きな意味を、
持つようになる。権力者はより有能な歌人を雇って、これに望むようにもなる。


最終、第20番、題、恋、
右 平兼盛 左 壬生忠見 
平兼盛も当時の最高の歌人と名を馳せ、多くの歌合に出詠。
壬生忠見、父、壬生忠岑古今和歌集の選者でもあり大歌人


隠し忍んでいた恋心だったが、思い悩んでいるのかと人に問われるまでに、顔色に出てしまっていたようだ。


恋をしていると私の話が広がっているようだ、人知れず思い始めているのに。


判者、藤原実頼は優劣を決めかね、天皇に判を下すよう命じられ、
困惑して補佐役の源高明に判を譲った。しかし高明も答えようとせず、
天皇のご様子を窺うと、ひそかに兼盛の「しのぶれど…」を口ずさまれた。
そこで右、兼盛の勝と決定したという。

忠見はこの勝負での心労で亡くなったと言われているが、そうではないようだ。

百人一首・百人秀歌でも二人の歌が並べて選んであり、歌合の歴史の中でも、
突出した勝負、歌であったと思われる。

歌合が行われた960年頃は、陰陽師安部清明が活躍していた時代であり、華やかな都の
裏では怨霊や呪詛などが流行していた時期でもあった。この頃、右京では、土地柄、
伝染病などが流行し、民衆は左京を越えて鴨川も越えて進出し始める。