mittsuの日記

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撞木町廓と大石内蔵助の関係の気になる記事

【センチメンタル京都】気晴らしに「遊郭討ち入り」
http://www.iza.ne.jp/news/newsarticle/natnews/topics/108890/
 「撞木町廓入口」と刻まれている。幅5メートルほどの路地の両側には、民家やマンション、和菓子屋、古本屋、料理屋、印刷工場などがびっしりと並んでいる。とても廓というイメージではない。

 入口すぐの印刷工場の駐車場わきに、高さ50センチほどのずんぐりとした石標が埋められていた。すでに字がかすんでいるが、

 「大石良雄遊興之地 よろつや」

 と読めた。大石良雄とは忠臣蔵のリーダー、大石内蔵助のことである。元禄年間まで、この撞木町と島原が京の2大花街であった。祇園はまだ新興勢力であった。

 元禄14年(1701)3月の刃傷松の廊下をキッカケとした「赤穂事件」は、翌15年12月15日の吉良邸討入りでクライマックスを迎える。内蔵助が山科に隠棲し、連日のように芸者遊びに繰り出したのはこの撞木町であった。それがなぜ祇園になったのか。

 赤穂事件をテーマにした芝居は事件直後から江戸、京、大坂で上演されたが、幕府の圧力もあって再三、上演禁止になった。大当たりしたのは事件から47年後の寛延元年(1748)、大坂の竹本座で上演された「仮名手本忠臣蔵」であった。

 浄瑠璃作者、竹田出雲ら3人の合作で、のちの忠臣蔵モノの原点となった作品である。なにしろ途切れることもなく、現在まで必ず演じられている。有名な「おかる・勘平」がまったくのフィクションであるように、その多くはフィクションである。

 七段目の「祇園一力の場」も、大半がフィクションである。現在、祇園の四条花見小路の角に「一力」という高級茶屋はあるが、内蔵助とは無関係である。出雲が執筆したころ、祇園も繁華になってきたので、撞木町から変更されたのではないだろうか。

 「仮名手本忠臣蔵」によると、由良之助(内蔵助)は「一力」で放蕩(ほうとう)に明け暮れ、仲居相手に鬼ごっこしたり、正体もなく酔いつぶれたりする。あだ討ちの気持ちはないかと問われると、

 「けもないことけもないこと、家国を渡す折りから、城を枕に討ち死にと言うたのは、御台さまへの追従……」

 と酔ってかわしてしまう。この段は敵を欺くために、放蕩を偽装したというのが現在までの解釈だが、とても信じられない。たんに遊女遊びがしたかったからではないか。

 −−撞木町は町の突き当たりが「T字」型、つまり撞木の形になっていたことから、この名前がつけられた。内蔵助が通ったのは山科の隠棲地から駕(か)篭(ご)で通えるという交通の便がよかったことと、島原に比べて、揚げ代が安かったからである。

 内蔵助が遊んだ「浮橋」や「夕霧」という遊女は、いちばん高い「太夫」ではなく、その下の「天神」というクラスであった。高い女には手は出せなかったのである。

一力茶屋と大石内蔵助は実は関係ない…史実は良く分からないので少し調べてみたい。


と思ったら、石碑があった、
大石良雄遊興地よろづや
http://www.city.kyoto.jp/somu/rekishi/fm/ishibumi/html/hu029.html

 大石良雄(1659〜1703)は,播磨赤穂藩主浅野家家老で通称内蔵助。元禄14(1701)年主君浅野長矩(1665〜1701)が吉良義央 (1641〜1702)に江戸城中で刃傷に及び,切腹を命じられ,領地は没収された。大石良雄赤穂藩再興をはかったが受け入れられず,山科に閑居し,伏見撞木町で遊興に耽るとみせて吉良邸討ち入りを画策したと伝える。この石標は,伏見撞木町よろづやの跡を示すものである。

やはりどうも史実のもよう、


こちらも、


撞木町廓碑
http://www.city.kyoto.jp/somu/rekishi/fm/ishibumi/html/hu051.html

 撞木町遊廓は,慶長9(1604)年渡辺掃部・前原八右衛門の両名により開設された。伏見の発展と共に元禄期(1688〜1704)全盛を迎え,赤穂浪士を率いる大石良雄(1659〜1703)が敵方の目を欺くため,この地で遊興したことで知られる。この碑は,撞木町遊廓の跡を示すものである。

まったく知らなかった…。


地図追加してみました。
西野山古墳と滑石街道
大石内蔵助が滑ったから滑り石ということ、)



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