mittsuの日記

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旧本能寺跡発掘にともなう、東北部堀跡に関する気になる記事

信長 本能寺 京の拠点?堀跡、東北部のみ囲む 境内4分の1占拠か
http://www.kyoto-np.co.jp/article.php?mid=P2007102000077&genre=M2&area=K1C
 京都市中京区の旧本能寺跡で、8月上旬に見つかった16世紀後半の堀跡は、その後の調査で境内の西半分には続かず、境内東北部を囲む堀だった可能性が高まった。織田信長明智光秀に攻められ自害した「本能寺の変」(1582年)と同時期で、信長は境内東北部、約4分の1を占拠し、京都の重要な拠点として用いていたと推測される。僧を追い出して本堂は壊していたとみる専門家もおり、歴史のベールに包まれている「信長時代の本能寺」の姿に、新たな謎を投げかけそうだ。

 ■「天皇迎える空間」説も

 旧本能寺跡は7月下旬−8月上旬、境内推定地の東側約130平方メートルを、関西文化財調査会(上京区、吉川義彦代表)が調査、本能寺の変によるとみられる大量の焼け瓦や、石垣を伴うL字型の堀を見つけた。

 その後、京都市埋蔵文化財研究所が堀の延長に当たる西側部分を調査したが、堀跡は検出できなかった。吉崎伸調査課長は「堀は南北の中心線(現在の小川通)を越えていなかった可能性が高い」と話す。

 この成果を基に、吉川代表が堀の位置を推定すると、堀が正方形だったと仮定すれば、境内東北部約4分の1を占拠していたことになる。復元案について、今谷明国際日本文化研究センター教授(日本中世史)は「細川管領家の屋敷など、通常の武家屋敷と同規模で、妥当な復元だ」と評価する。

 ただ、そうなると他の建物配置が問題になる。通常、境内の中央部には本堂があるが、堀を正方形に造ろうとすると、本堂が邪魔になる。ほぼ同時代の京を描いた「上杉本洛中洛外図」には瓦葺(ぶ)きと板葺きの建物が2棟ずつ描かれるが、本能寺の大部分は雲で隠され、実像は全く分かっていない。

 吉川代表は、ポルトガル人宣教師ルイス・フロイスの「日本史」にある「信長が僧侶を追放し、複数の建物をつくった」との記述に着目。「僧侶のいない寺に本堂は必要ない。本堂を壊し、その資材を利用して占拠した可能性もある」と推測する。

 一方、下坂守・帝塚山大教授(日本中世史)は「フロイスの記述は概ね信用してよく、僧侶を追放したのは事実だろう。しかし、それは僧侶を居住空間から追い出したにすぎず、寺の機能は失っていなかった」とみる。

 今谷教授は「堀により、信長は境内に僧侶が立ち入れない空間をつくったのだろう。(境内の4分の1にとどまる)堀の復元で、信長にとっての本能寺が、軍事的というより、天皇や公家を迎える儀礼的な空間だった性格が明らかになった」としている。
 本堂破壊の真相は不明だが、今後の旧本能寺調査に向け、今回の発掘結果が重要な意味を持つことは間違いない。

本能寺が軍事的防御力が全くなかったなどの新発見もあるのかも。