mittsuの日記

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大石内蔵助について気になる記事

【もう一つの京都】忠義に厚く家族に優しい大酒飲み 大石内蔵助
http://sankei.jp.msn.com/culture/academic/090215/acd0902150801002-n1.htm
無念の死を遂げた主君のため、命に代えてでもあだを討つ−。江戸時代中期、赤穂藩主・浅野内匠頭(たくみのかみ)長矩(ながのり)への忠義を胸に秘めた47人の浪士が、吉良上野介(こうずけのすけ)義央邸へ討ち入った「赤穂事件」。「命よりも忠義が大事」という彼らの美学は多くの日本人の心を動かし、事件を題材にした「忠臣蔵」は、映画や小説、ドラマなどで今も人々に親しまれている。

 浪士たちのリーダーは、筆頭家老である大石内蔵助(くらのすけ)良雄(よしたか)。浅野家の代々家老の家に生まれ、兵学者・山鹿素行軍学儒学者伊藤仁斎儒学、東軍流の剣客・奥村権左衛門に剣を学んだという。性格は温厚篤実にして深謀遠慮。君子の風格を持っていたともいわれている。

 主君切腹の知らせを聞いたときは、いち早く赤穂藩をまとめ、赤穂城をあけ渡すことを決断。復讐のときをじっと待ち、はやる家臣たちを抑え、およそ2年もの歳月を耐えた。

 殿の無念を思うと、内蔵助も内心はいてもたってもいられなかったに違いない。脱落する藩士もいる中、内蔵助は、つのる焦燥感をどのように抑えて過ごしたのだろうか。    

 浅野家再興や討ち入りの計画が進まない間、内蔵助が京都・祇園や伏見の橦木(しゅもく)町など、当時最も栄えていた遊郭で遊び歩いていたというのは、忠臣蔵でもおなじみのエピソードだ。酒をこよなく愛し、女遊びも相当なものだったという。

 「江赤(こうせき)見聞記」には、「内蔵助こと、まったく活気なる生まれつき故、京都において遊山、見物等の事に付き、宜しからざる行跡もこれあり」と記されており、2〜3日に1回、1升の酒を買い求めたという記録も残っている。

忠臣蔵では、こうした内蔵助の放蕩(ほうとう)は、敵の目を欺くための戦術だったとされている。「江赤見聞記」にも、上野介のスパイが内蔵助の様子から、討ち入りなど考えていないと判断し、引きあげていったという逸話が残っている。

 だが、赤穂事件を研究している財団法人・中央義士会の中島康夫理事長は、「敵の目をくらませるというのはうそ。小説をおもしろくするためのエンターテインメントですよ」と話す。内蔵助は単に酒が好きだったに過ぎず、いずれ大事件が起きることを予期していたから遊びほうけていたというのだ。 

 しかし、中島さんは「放蕩することで、わざと家族をあきれさせる、ということもあったんでしょう」とも推測する。目的を成就すれば、家族も巻き込んでしまうことは目に見えている。だからこそ、その前に自ら家族から離れていこうとしたという見立てだ。

 赤穂義士について伝える史料「朝原覚書」にも、内蔵助が親戚に「縁を切ってくれ」と申し込んだことが記録に残っており、実際に、元禄15(1702)年5月には妻子と離縁している。

 内蔵助は離婚から約半年後の12月15日、義士たちを率いて上野介の首を打ち取り、大願を成就。翌年2月4日に切腹し、45年の生涯に幕を降ろした。

 もし妻子が一緒にいたら、彼らはどうなっていたか。「これが彼の優しさなんですよ」と中島理事長。一途で忠義に篤く、大酒飲みで家族思い。幾分、後世になって美化されている部分もあるだろうが、人間味あふれる内蔵助の人物像はたくさんの人をひきつけ、高い人気を誇る。 

 内蔵助が通ったという祇園の茶屋「一力亭」では、毎年3月20日に内蔵助をしのぶ行事「大石忌」が行われる。なじみの客だけを招待して、芸舞妓(げいまいこ)が舞を披露し、抹茶や手打ちそばが振る舞われる。

忠臣蔵では、こうした内蔵助の放蕩(ほうとう)は、敵の目を欺くための戦術だったとされている。「江赤見聞記」にも、上野介のスパイが内蔵助の様子から、討ち入りなど考えていないと判断し、引きあげていったという逸話が残っている。

 だが、赤穂事件を研究している財団法人・中央義士会の中島康夫理事長は、「敵の目をくらませるというのはうそ。小説をおもしろくするためのエンターテインメントですよ」と話す。内蔵助は単に酒が好きだったに過ぎず、いずれ大事件が起きることを予期していたから遊びほうけていたというのだ。 

 しかし、中島さんは「放蕩することで、わざと家族をあきれさせる、ということもあったんでしょう」とも推測する。目的を成就すれば、家族も巻き込んでしまうことは目に見えている。だからこそ、その前に自ら家族から離れていこうとしたという見立てだ。

 赤穂義士について伝える史料「朝原覚書」にも、内蔵助が親戚に「縁を切ってくれ」と申し込んだことが記録に残っており、実際に、元禄15(1702)年5月には妻子と離縁している。

 内蔵助は離婚から約半年後の12月15日、義士たちを率いて上野介の首を打ち取り、大願を成就。翌年2月4日に切腹し、45年の生涯に幕を降ろした。

 もし妻子が一緒にいたら、彼らはどうなっていたか。「これが彼の優しさなんですよ」と中島理事長。一途で忠義に篤く、大酒飲みで家族思い。幾分、後世になって美化されている部分もあるだろうが、人間味あふれる内蔵助の人物像はたくさんの人をひきつけ、高い人気を誇る。 

 内蔵助が通ったという祇園の茶屋「一力亭」では、毎年3月20日に内蔵助をしのぶ行事「大石忌」が行われる。なじみの客だけを招待して、芸舞妓(げいまいこ)が舞を披露し、抹茶や手打ちそばが振る舞われる。