mittsuの日記

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少し気になった坂本竜馬に関するコラムについて

<ぶんか探訪>竜馬は生涯1人も斬らず──志士眠る京都・清閑寺霊山町
http://www.nikkei.co.jp/kansai/news/news000672.html
幕末の志士、坂本竜馬が亡くなって今年で140年。彼の墓碑と維新研究の拠点がある京都市清閑寺霊山(りょうざん)町を訪ねた。竜馬の人気は今も衰えておらず、その死を巡って新たな竜馬像も浮かび上がっていた。

 清閑寺霊山町は、JR京都駅前から東山回りのバスに乗り、東山安井停留所で降りるとすぐだ。しかしお昼近くになり、おなかが鳴ってきたので1つ前の停留所、清水道で降りて昼食をとることにした。この辺りは、昔ながらの街並みが保存された産寧坂二年坂があり、京情緒を堪能できる。「どこか良い店は」と探していると、目に付いたのが「明保野(あけぼの)亭」。坂本竜馬が、土佐藩家老の息女、お田鶴(たづ)と逢瀬(おうせ)を重ねたことで知られる老舗の料亭だ。その恋は、土佐藩の下級武士の竜馬と家老の娘では身分が違いすぎて成就しなかった。


 食事を済ませ、北東へ進むと小高い山が見えてきた。東山三十六峰の中央に位置する霊山(りょうぜん)だ。竜馬の墓はこの地の京都霊山護国神社裏の高台にあった。「最近は若い人の参拝者が増えています」と巫女(みこ)さん。ここには久坂玄瑞高杉晋作といった志士の墓碑もあるが、参拝者の多くは真っ先に竜馬の墓を目指すそうだ。

 神社の向かいの霊山歴史館に足を運んだ。開館は1970年。松下幸之助が初代館長を務めた維新研究の拠点だ。竜馬ファンの来訪も多く、11月から「坂本竜馬検定」を催すという。「竜馬と西郷」展(11月25日まで)を開いていて、書状や写真など約100点を展示している。

 竜馬は海援隊を結成。薩長同盟を成し遂げて大政奉還に道を開いた。1867年(慶応3年)11月に暗殺されたが、北辰一刀流の剣の達人だっただけに、「なぜ反撃できなかったのか」という謎が残っている。

 数え33年の生涯に思いを巡らせていると、ある史料に目がとまった。幕府傘下の見廻組(みまわりぐみ)の剣豪で、暗殺者とされる桂早之助が持っていた「竜馬を斬(き)った刀」だ。刀身に無数の傷があるが、驚いたのがその短さ。約40センチで脇差しという方がふさわしい。

 「桂は竜馬の同志が多い『十津川郷士』を名乗り、彼の正面に正座した。そして居合の形で刀を抜いたんです」。同館学芸課長で居合道教士七段という木村幸比古さんが説明する。桂は竜馬と堂々と剣を交えたのでなく、不意打ちにするため抜きやすい脇差しを持っていたというのだ。

 竜馬には剣豪のイメージがあるが「実態は違う」と木村さん。「28歳ごろから剣をやっていない。剣より日本の進路を考え、海軍塾、海援隊などそれぞれの時代を、区間賞をとる勢いで疾走した。刺客につきまとわれても悠然としていたのではないか」。竜馬は生涯1度も人を斬らず、暗殺当日も刀を床の間に置いていたという説が強い。

 歴史館を出た後、再び竜馬の墓に向かった。さっきは気に留めなかったが、墓の周りには、参拝者の思いが黒ペンで書かれた石板がたくさんあった。「あなたの夢いつか実現します」「必ず事を成します。見守ってください」――。混迷の平成の世にも竜馬のような人物が出てくるといいのに。そんなことを思いながら眼下に目をやると、京都の街が夕日に輝いていた。(大阪・文化担当 浜部貴司)

自分もいつかはおまいりに行ってみたい、行きやすいところにありながら意外と通らない場所かも、、
八坂さんで銅像を見たあとそのまま二年坂へ、というルートがいいのかもしれない、